赤坂
赤坂の名の由来になった高台に国宝となった西洋宮殿が佇む
迎賓館赤坂離宮
赤坂御用地に沿った緩やかな坂、紀伊国坂は古くは赤坂と呼ばれた。坂の一帯に染料になるアカネが自生し、赤根山と呼んでいたのが由来という。江戸時代その高台が紀伊徳川家の中屋敷となり、坂は現在の名に改まった。明治時代、その屋敷跡に建てられた宮殿の一つが現在の迎賓館赤坂離宮である。
紀伊国坂
迎賓館赤坂離宮前から元赤坂1丁目方向へと下る紀伊国坂の西側には、江戸時代、徳川御三家の紀伊徳川家が中屋敷を構えていた。同家の上屋敷は紀尾井町にあったが、その屋敷が江戸後期に焼失して以降は藩主も赤坂に住んだ。紀伊藩主から八代将軍になった徳川吉宗が1730(享保15)年に氷川神社の社殿を建立するなど、赤坂と紀伊徳川家の関係は深い。
世界の賓客をもてなす23区内唯一の国宝建築
赤坂は皇室ゆかりの地である。紀伊徳川家が1872年、赤坂の広い中屋敷を皇室に献上したのがきっかけだ。現在「赤坂御用地」と呼ばれるその地には上皇の住まいとなった仙洞御所、秋篠宮邸、三笠宮邸、高円宮邸などがある。隣接する赤坂離宮だけは第二次大戦後に内閣および国会の公館となり、1974年より迎賓館として外国の王室関係者や政府首脳などを迎えている。
本来赤坂離宮は後の大正天皇の東宮御所として建てられた。設計を担ったのは鹿鳴館を設計したジョサイア・コンドルの弟子で、政府の建築家として明治宮殿の建設などに関わった片山東熊(とうくま)である。片山は外国の宮殿に劣らない建物をつくろうと約2年かけて欧米を視察したうえで設計に取り掛かった。10年の工期を費やし、1909年に完成した建物は、当時の流行だったネオ・バロック様式である。正面外観は賓客を両腕で迎え入れるかのようにカーブを描く。内閣府迎賓館の担当者は「西洋をただ追うのではなく、随所に日本のモチーフが見られます。たとえば西洋なら騎士の像がある位置に武士がいます」と屋根を指した。たしかに鎧兜の人物が屋根に立つ。
内部はフランスの複数の宮殿を参考に設計され、家具や電灯などもフランスから輸入された。フランスに特注したシャンデリアは1点の重さが1トン以上あるものもあるが、天井裏の鉄骨に吊られており、関東大震災でも落下していない。豪華絢爛な装飾にも日本のモチーフが散見し、七宝焼や金華山織など日本の工芸が違和感なく溶け込んでいるのも見事である。文化庁は竣工100年目の2009年、「当時の建築技術や工芸美術の粋が結集され、全体が華麗な意匠でまとめられている。わが国の明治期から戦前を代表する建築の一つ」として、近代建築として初めて迎賓館赤坂離宮を国宝に指定した。2016年より観光推進の目的で通年で一般公開を行っているので、ぜひ一度は足を運んでみてほしい。明治の人々の熱い思いがあふれる空間が、現状打破のヒントを与えてくれるかもしれない。

関東大震災にも第二次世界大戦中の空襲にも大きな被害を受けず、竣工時の姿をほぼそのまま残す。賓客は自動車に乗ったまま正面玄関の車寄せまで行くことができる。

外国からの賓客を迎える玄関ホール。イタリア産の白い大理石ビアンコ・カララと宮城県産の玄昌石が市松模様に張られた床に赤い絨毯が伸びる。

「朝日の間」は最も格式が高い部屋で、要人の表敬訪問や首脳会談などが行われる。ルイ16世様式の室内を飾るカーテンや壁のアクセントに西陣で織られた「金華山織」を使用。

晩餐会の会場となる「花鳥の間」はアンリ2世様式の落ち着きのある内装。木曽のシオジ材を張った壁に、パリ万博などで活躍した名工・濤川惣助(なみかわそうすけ)が制作した七宝焼の花鳥画30枚を飾る。下絵は、ドガやマネらと交流した日本画家・渡辺省亭(せいてい)が描いた。

ナポレオン1世の時代のアンピール様式で統一された「彩鸞の間」は、首脳会談や条約調印に用いられている。野戦のテントをイメージさせる天井、剣や兜などの軍事的モチーフを散りばめている。10枚の大鏡がシャンデリアをよりきらびやかに見せる。
協力:迎賓館赤坂離宮
(港区元赤坂2-1-1 参観問い合わせ:Tel.03-5728-7788)
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赤坂エリア全体MAP
REAL PLAN NEWS No.124 掲載
