代官山
暮らしを豊かに、文化を創造する建築
ヒルサイドテラス
若者たちのエネルギーが世界を動かしていた1969年、代官山の高級住宅地にアメリカ帰りの気鋭の建築家、槇文彦の設計による3階建ての複合施設が2棟完成した。依頼者は代官山の名家、朝倉家が営む朝倉不動産。依頼、槇文彦と朝倉不動産は手を携え、ヒルサイドテラスの拡張を続けながら、豊かで文化的な都市生活の創造に努めた。
朝倉不動産が東京都に貸与していた土地が返還され、1992年に竣工した第六期のF・G棟。用途地域の変更により高さ10mの制限が緩和されたが、景観を整えるため、あえて道路の反対側にあるA〜D棟の高さ10mに合わせた。
「奇跡」の実態は一生懸命
代官山の旧山手通り沿いを中心とした約10棟の建物で構成されるヒルサイドテラスは、2024年に95歳で亡くなった世界的建築家、槇文彦の代表作の一つ。土地の歴史や日本の文化を取り入れた、モダンでヒューマンスケールの建築群は、豊かな都市生活空間のモデルとして高く評価されている。
設計を依頼した施主は、ヒルサイドテラスの管理も行う朝倉不動産である。事業の目的は所有する土地の有効活用だった。同社の朝倉健吾会長は、「戦前うちはアパートをたくさん持っていましたが、ほとんどは戦争で焼け、もともとの家業だった米屋も統制経済で廃業となり、戦後は残った土地を貸して生計を立てていました。大正時代に建てた家を手放し、自宅の土地に小さい家を建てて住んでいましたが、土地がもったいないから、自宅と建築可能な土地で何かしよう、と考えたのが始まりです」と語る。
どのような建物を建てるべきか検討中だった1967年、朝倉家の人々は知人を介して槇文彦と出会った。アメリカで研鑽を積み、2年前に帰国した39歳の建築家に非凡な才能を感じ取った朝倉家の人々は、互いに慶應の幼稚舎出身という親しみもあったことから、建築の話をする前に「槇さんに依頼しよう」と決めてしまった。すべてを委ねられた建築家は、商業スペースの上に住宅を重ねた2棟の建物を提案した。
当時の旧山手通り沿いは御屋敷街であったが、朝倉会長によると、モダンな住宅が立ち並ぶ「ハイカラ通り」だったという。モダン建築の名手、土浦亀城が手がけた豪邸、アントニン・レーモンド設計の木造洋館などを囲う石塀が連なり、昼も人通りは少なかった。制度上、住居しか建てられない地域だったが、「一団地申請」でその問題を解決し、1969年にヒルサイドテラスのA・B棟が完成した。すると、レストランやショップの利用、雑誌の取材、建物の見学などで、外部の人々がやって来るようになった。朝倉会長は「経験したことがないような反響があって、これは続けるべきじゃないかと僕らは決心したんです」と振り返る。
その後、建築家のプランに沿って、朝倉不動産は第二期、第三期と段階的に事業を進めた。段階ごとに資金や土地の準備に時間がかかり、最後のヒルサイドウエストの竣工は1998年となった。同じ施主と建築家で約30年もの長い時間をかけたプロジェクトはあまり例がない。「奇跡だとよく言われるけれど、やっている間は一生懸命なだけ。その場その場でできることを一生懸命やったら良い結果になった、ということですかね」と朝倉会長。名建築の完成は奇跡ではなく、関係者の熱意の結果であった。

ヒルサイドテラスに隣接する旧朝倉家住宅。大正時代の邸宅文化をよくとどめる建築として国の重要文化財に指定され、渋谷区が管理している。朝倉家は代官山の米店から事業を拡げ、1919年にこの家を建てた朝倉虎治郎は東京府会議長などをつとめた。(写真:渋谷区)

1969年頃のヒルサイドテラス。全長約200mの敷地に白い鉄筋コンクリート造りのA・B棟が並ぶ。最初は朝倉不動産がA棟の東端でギャラリーも運営していたが、現在はヒルサイドテラスの運営にも協力するアートディレクター、北川フラム氏のアートフロントギャラリーに(写真:朝倉不動産)

1973年に竣工した第二期C棟と、1977年に竣工した第三期D棟。槇文彦は日本の都市に「奥」の存在を見出したことでも知られ、ヒルサイドテラスでは大通りから樹木の繁る奥へと視線を誘いこむ。

第一期の完成後、急激に自動車の通行量が増えたことから、第二期C棟は排気ガス対策として外壁は汚れがつきにくい吹付タイルを使用し、騒音対策として道路側の窓を少な目にした。歩道から階段を少し上がったところに中庭を設け、パプリックスペースに。

ヒルサイドテラスは既存の樹木や地形をなるべくそのままに、土地の歴史の継続を意図して設計されている。E棟の前の猿楽塚は、区の文化財でもある古墳。塚の上の猿楽神社は現在朝倉不動産が管理していて、E棟管理室で御朱印を配布。
文化とコミュニティこそが価値
ヒルサイドテラスの誕生から55年が過ぎた。建物自体は年月相応に古くなっているものの、その魅力は古びることなく、空きが少ない優良物件でもある。人気が衰えない理由の一つは、日頃の掃除から耐震補強に至るまでのメンテナンスである。白い壁に樹影を映す高木も、定期的に手を入れ樹形を整えている。もう一つは、「使い方をアップデートするというか、時代に合ったような使い方がされていることが陳腐化しない要因かなと思います」と朝倉会長は考える。そもそも設計者は使い方が広がるように、人と人が交流できるセミパブリックなスペースを第一期から設け、朝倉不動産はそれを文化事業の場としてきたのだった。さらに1987年には多目的ホールとしてヒルサイドプラザを、1992年にはヒルサイドフォーラムを設けたことで、開催可能なイベントの種類も広がった。これらの運営にはヒルサイドテラスの入居者、その知人や友人なども参加し、多様な人々が出会う場となっている。
コミュニティづくりの面では低層ならではのメリットもある。「住んでいる人もテナントやオフィスで働いている人も顔を合わせる機会が多く、コミュニティができやすい。僕らは『アーバンヴィレッジ』と呼んでいるんです」と朝倉会長。景観や防災を考える活動でコミュニティはヒルサイドテラスの外にも広がりつつある。敷地内の猿楽神社の「猿楽祭」には隣のデンマーク大使館も参加し、地域を盛り上げている。
コミュニティ活動や文化活動は、一般に社会貢献活動と呼ばれるが、朝倉会長は「僕らは商売をやっているわけで、価値をつくることが商売だと思ってやってきました」と語る。人と人がつながり、文化を楽しむ暮らしの価値を追求してきたビジネスマンとして、2069年、誕生100年目のヒルサイドテラスに期待するのは、「そのまま使われていること」という。これまでの経験から、「その時代の人に使われていれば、いい形で残っていく」と確信しているのだ。

ヒルサイドフォーラムで開催された「SDレビュー2024」東京展の会場風景。SDレビューは1982年に始まった槇文彦発案の設計コンペで、ヒルサイドテラスと若手建築家たちを結びつけている。過去の入選者には安藤忠雄、妹島和世など有名建築家が多数。(写真:SDレビュー事務局)

ヒルサイドテラスは近隣の人々とともに災害に強いコミュニティづくりに取り組んでいる。2024年の猿楽祭で行われた「防災シンポジウム」には震災と台風被害を経験した石川県珠洲市の副市長が参加し、現場の状況を報告した。(写真:朝倉不動産)

D棟の隣に1979年に竣工したデンマーク大使館。朝倉不動産は、先祖が精米所を営んでいた土地を同国に売却するにあたり、景観の連続性への配慮から、槇文彦が設計を担当することを条件とした。外装の淡いサーモンピンクのタイルが、ヒルサイドテラスとの違いをさりげなく主張する。

2018年より、ヒルサイドテラスの猿楽祭の時期にデンマーク大使館では「デンマーク・オープン・デイズ」を開催。庭園にはデンマークの食のブランドの出店や、レゴのワークショップなどがあり、大人も子どもも同国の魅力に触れることができる。(写真:デンマーク大使館)
協力:朝倉不動産株式会社ヒルサイドテラス
(渋谷区猿楽町29-18 Tel.03-3461-5803)
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目次
代官山エリア全体MAP
REAL PLAN NEWS No.125 掲載
