StoryEssay / 2018 02,22 /Part.1

第1話「誰かといたかった」

新生活のはじまりは、期待や不安が入り混じるもの。就職を機に上京した主人公が、東京での暮らしの中で成長していくようすを描いた、ライター・夏生さえりさんによる連載小説です。

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ピッと暖房のスイッチを入れる。手をこすりながら、先ほど入っていた着信に折り返し、スピーカーにする。

「引っ越しの準備、進んでる?」

電話越しで母が言う。

「うんー。あとちょっと」

春からは上野で働くことになった。せっかく大学生活で慣れた福岡からは離れることになってしまうけれど、思いのほか寂しさを感じない。ここはわたしの故郷ではないし、土地に紐づく思い出には空虚なものが多いからだろうか。都市部の飲み屋は高いから、と言って、大学の周辺でばかり飲んでいた。だからせっかく福岡に住んでいても、美味しいものを食べた記憶はない。思い出せるのは、安くて、全国どこにでもある飲み屋のまずいカシスウーロンの味。博多弁も、あまり馴染めなかった。でも、「通りもん」が食べられなくなるのは、すこし悲しい。

当たり前だけれど、これからは親が家賃を払ってくれないなんてどう考えても地獄だ。……と、姉に嘆くと「馬鹿、当たり前でしょ」と予想どおりの怒られ方をした。

会社から徒歩10分。管理費込みで7万4千円の新しい家は、今よりもずっとずっと狭い。東京というのは、どうしてあんなにも狭い部屋しかないのか。気持ちが沈むのをこらえるために、今よりもすこしだけ日当たりがいい部屋にした。

「新しい暮らし、楽しみね」

母が電話を切る前に言った言葉が、妙に頭に残った。

新しい、暮らし。
その響き自体は甘美なのに、ほんのわずかに胸がざわつく。何もかもがなくなって、一からスタートするのはどれだけ心細いことか。いや、でも、いっそ、すべてなくなったほうが清々しいのかもしれない。なにもかもを捨ててはじめる、新しい暮らしと新しいわたし。そうつぶやいてみると、わずかに勇気が湧いてくる。

でも、もし。
もし、わたしとカズヒロがまだ付き合っていたら。
わたしたちは東京で甘いデートをしただろう。何度か行ったことがあるとはいえ不慣れな東京を、カズヒロが案内をしてくれる。煌めくような夜景が見えるバーで、東京らしいスタイルで。数年後には一緒に”乃木坂”に住んでいたかもしれない。知らない土地で、わたしを知っている人がいればどれだけ安心だったことだろう。東京へ行ったら、誰に助けてもらえばいいのだろう。どうやって、生活を充実させればいいのだろう。

そこまで考えて、久しぶりに泣きそうになった。カズヒロなんていなくても平気、と言って笑いたいのに、半年がすぎてもなお胸に残り続けている。

孤独が足元から襲ってきて、このままだと飲み込まれる。急いで親友に電話をかけたけれど、出なかった。誰かといたいのに、いられない。誰かといないわたしは、いま世界からどう見えているのだろう。

孤独はすぐに去って、思いの外すんなり眠れた。そんな夜を重ねて、今がある。
あのとき、段ボールが山積みになった部屋の片隅で、わたしはまだ見ぬ乃木坂に思いを馳せながら静かに成長していたのだ。

【次回】
住み慣れた場所を離れ、新生活をスタートさせることになった主人公・スミレ。東京でどのように過ごしていくのか……次回、社会人になったスミレの姿を追います。