StoryEssay / 2018 03,30 /Part.3

第3話「新しい暮らし、たのしみね」

新生活のはじまりは、期待や不安が入り混じるもの。就職を機に上京した主人公が、東京での暮らしの中で成長していくようすを描いた、ライター・夏生さえりさんによる連載小説です。

夏生さえり

フリーライター。出版社、Web編集者勤務を経て、2016年4月に独立。Twitterの恋愛妄想ツイートが話題となり、フォロワー数は合計18万人を突破(月間閲覧数1500万回以上)。難しいことをやわらかくすること、人の心の動きを描きだすこと、何気ない日常にストーリーを生み出すことが得意。好きなものは、雨とやわらかい言葉とあたたかな紅茶。著書に『今日は、自分を甘やかす』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)。共著に『今年の春は、とびきり素敵な春にするってさっき決めた』(PHP研究所)。『口説き文句は決めている』(クラーケン)。
Twitter:@N908Sa

ぱた、と日記を閉じると、外はもうすっかり暗くなっていた。

不意に、わからなくなる。今どこにいて何をしていて、このあと何をするつもりだったのか。日記の中から溢れ出した過去が、わたしの中へなだれこんできて、現在と混ざり合って自分がどこにいるのかわからない。深い記憶の海に、ごぽごぽと飲み込まれていく。

18歳のころからゆるく続けていた日記は、わたしにいろんなことを思い出させた。カズヒロとのことも、それから「自由」をほしがらなくなった瞬間のことも。時に力なく、時に浮き足立っていた文字たち。あの頃、わたしはどんな顔でこれらを書きつけていたのだろう。それぞれの出来事は思い出せるのに、それらはどこか他人事のように遠い。

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テロリンッ。

現実に引き戻すようにスマホが鳴り、画面を見ると恋人からのメッセージが表示されていた。あ、そうだ、今日の夜はコウスケが来るんだった。30分後には上野駅へと着くという。

過去からの追っ手を振り払うように勢いよく立ち上がり、カーテンを閉める。日記帳は、ダンボールの中に並ぶ本の一番下へそっと入れた。

ふぅっと息を吐き、部屋中を見渡す。

あちらこちらに積み重ねているダンボール。スペースを取るために縦に置かれている小さなソファ。引っ越しはもう間近に迫っているというのに、荷造りをしていると、すぐに脱線して別のことをはじめてしまってなかなか進まない。玄関に置いてあったゴミ袋をガサガサと音をたてながら閉じる。ひとつ、ふたつ、みっつ。いっぺんに持ち上げて表へ出ると、外はひんやりとしていてまた冬の面影が漂っていた。

3階建てのアパートには、エレベーターはない。2階の部屋からごみ捨て場までの階段を降りる途中、隣の住人に会った。ネルシャツとジーンズ、その上にはダウンを着ている。彼はいつもその格好だ。ゴミ袋を3つも持っているわたしを気遣って階段の端に寄ってくれたが、「こんばんは」と声をかけても返事はなかった。彼は、わたしが越してきた日から今日までずっと、こうだった。ブレないなあ、などと頭の隅でぼんやり思い、ここに住んだ6年のことを思った。トントンと彼の覇気のない足音が2階へあがり、鍵のチャラチャラという音が聞こえ、わたしの隣の部屋のドアがバタンと閉じた。彼の姿を見るのも、今日が最後かもしれない。

次に住む街は、こことはだいぶ違う。コウスケと暮らす新しい家は、ちょっと贅沢に2LDK。リビングは10畳もある。その代わり、都心からはだいぶ離れてしまうが、ふたりの勤務地の間をとれば妥当なエリアだった。駅を出て、ぽつ、ぽつとお店があるだけのあの街。福岡に住んでいた頃は、聞いたこともなかったあの街。あと数日後には、そこが「帰る場所」になるのだ。大人になって良かったことの一つは「帰る場所」を自分で選べるようになった贅沢にあると思う。もっとも、そんなことを思うようになったのはここ最近だけど。

そういえば、24時間やっているファミリーレストランは近くにあっただろうか? あとでコウスケと一緒に、地図を見ながら確認しよう。それからコウスケの好きな、珈琲屋さんがあるかどうかも。