高輪
武士道のゲートウェイ
泉岳寺
赤穂事件の義士たちが眠る泉岳寺。ここでは彼らをより⾝近に感じられるとともに、「忠臣蔵」に熱狂した江戸という時代への興味が大きくふくらむ。
坐禅・読経などの修行が行われる本堂。江戸時代は200人近い僧が修行していた。現在の本堂は第二次大戦後の再建である。
徳川家ゆかりの寺
都営線の駅名にもなっている泉岳寺は、徳川家康が1612(慶⻑17)年に創⽴した曹洞宗の寺である。はじめは外桜⽥にあったが、寛永の⼤⽕で堂宇を焼失したのち現在地に移った。その際、当時の将軍家光が泉岳寺を援助するように命じた五つの⼤名家の⼀つ、浅野家はのちに「⾚穂事件」を起こす。
1701(元禄14)年3⽉、当時の浅野家の当主、内匠頭(たくみのかみ)⻑矩(ながのり)は江⼾城内、松の廊下で同僚の吉良上野介(こうずけのすけ)義央(よしひさ)を⼑で斬りつけ、重傷を負わせた。吉良上野介の嫌がらせに耐えかねての行動といわれるが、それにより⻑矩は切腹を命じられ、領地の⾚穂は没収された。主を失った家⾂たちはひそかに名誉挽回の計画を練り、翌年の12⽉14⽇(⻄暦では1703年1⽉31⽇)未明、元家⽼⼤⽯良雄ほか47⼈は吉良邸を襲撃、主の仇を討った。その後⼀⾏は泉岳寺に向かい、吉良の⾸を主の墓に備えたが、幕府は徒党を組んで騒ぎを起こしたことを許しがたい犯罪とみなし、47名全員が切腹を命じられた。
1748(寛延1)年初演の「仮名⼿本忠⾂蔵」、通称「忠⾂蔵」は、この事件を題材とした作品である。観客は義理と⼈情の間で揺れ動き、ままならぬ運命に翻弄される登場⼈物に共感し、熱狂した。⽂楽、歌舞伎で何度も繰り返し上演されたことにより、寺としては望んだことではないが、⾚穂義士とともに泉岳寺の名が広まったのである。
「赤穂義士墓地」には討ち入りに参加した47人のほか、「忠臣蔵」の早野勘平のモデルとなった萱野三平の供養墓がある。境内には義士が吉良上野介の首を洗った「首洗いの井戸」や、義士の遺品などを展示する「赤穂義士記念館」なども。
協力:曹洞宗 萬松山 泉岳寺
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REAL PLAN NEWS No.127 掲載